半坪ビオトープの日記

白河関跡、古関蹟の碑


白河駅の南方12kmに白河関跡がある。常陸勿来関、羽前の念珠関と並ぶ奥羽古三関の一つで、5世紀頃に蝦夷対策として設けられた東山道口における奥羽への関門だった。その後、律令制の衰退とともに機能を喪失したが、能因法師が「都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞふく白河の関」と詠んだように歌枕として名高かった。しかし、その位置は判然としなくなった。

白河藩松平定信は、考証の結果、空堀・土塁が残る旗宿の現在地を白河関と比定し、寛政12年(1800)古関蹟碑を建立した。その後の昭和35年から5年にわたる関の森遺蹟発掘調査でも妥当とされ、国史跡として指定された。発掘調査結果や文献資料から、白河関が機能していたのは8・9世紀頃と考えられている。

このカエデの木は、幌掛の楓という。源義家が、安倍貞任追討(前九年の役)のため白河の関を通過するとき、この楓に幌をかけて休憩したと伝えられる。

こちらのサクラの木は、旗立の桜という。治承4年(1180)源義経が平家追討のため平泉を発し、この社殿に戦勝を祈願、旗揃えをしたとき、この桜に源氏の旗印を立てたと伝えられる。

古関蹟碑の右手に杉の巨木がある。従二位のスギといい、鎌倉時代初期の歌人藤原家隆が植えたとする伝承がある。家隆(1158~1237)は侍従や宮内卿を歴任し、嘉禎元年(1235)には従二位を与えられたが、翌年出家し、各地を遊行してこの地に至りこのスギを植えたという。
「風そよぐならの小川のゆふぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける   従二位家隆」との歌が百人一首にある。