半坪ビオトープの日記

大内宿、全景


大内宿の突き当たりに一回り大きい茅葺き屋根の浅沼食堂がある。一段高くなっていて大内宿を一望できるので、江戸時代には役人達が見張り場所として使ったそうだ。

浅沼食堂には、岩魚の串焼きや岩魚天ぷら蕎麦のほか、ねぎそばもある。高遠蕎麦と同じように一本の長ネギでそばを食べるものだ。初代会津藩保科正之が、少年期を過ごした高遠の蕎麦をもたらしたのが由来という。

浅沼食堂の裏手は高台になっていて、急な石段を上っていくと、寄棟茅葺きの子安観音堂がある。観音堂の観音像は、延享3年(1746)正法寺の住職によって奉られたという。観音堂の左手に浄土宗の正法寺がある。戊辰戦争では大内峠で40名が戦死するなど周辺は激戦地となり、正法寺は官軍の詰め所となる。会津藩の砲兵隊頭取、笹沼金吾は大内峠の戦いで敗退した後も一人で官軍に切り込んだと伝わる人物で、壮絶な戦死の後、大内宿の住民が密かに正法寺境内に埋葬したと伝えられている。

子安観音堂の右手からは、大内宿の全景がよく見える。一番手前が浅沼食堂である。

さらに右に進むと弁天堂があり、弁天様が奉られている。

弁天堂の手前の石段を下りきったところで振り返ると、斜面には石塔が立てられ、その先には三仏堂が建っているのが見えた。