半坪ビオトープの日記

下郷町、大内宿


那須岳ハイキングを諦めた代わりに、福島県下郷町の大内宿に向かった。那須高原から福島県西郷村甲子高原まで山腹を走り、4年前に開通した長い甲子トンネル(4345m)をくぐって下郷町に抜けた。下郷駅から大内宿に向かい中山峠を下った辺りに、八幡の大ケヤキがある。樹高36m、周囲12m、樹齢約950年という。天喜3年(1055)八幡太郎義家が、陸奥の豪族安倍貞任討伐の折、険しい道に難儀し、ここ二宮家で休憩した。裏道を教えられ手厚く歓待された結果、勝利した義家はお礼にと庭にケヤキを植えたと伝えられている。

大内宿は、会津城下と下野の国(日光今市)をむすぶ32里の区間の中で、会津から2番目の宿駅として1640年頃に整備された宿場町である。昭和56年に国選定重要伝統的建造物群に指定され、多くの観光客が訪れるようになった。広い駐車場がいくつも整備され、かなり歩かされる。

下野街道は、南山通り・日光街道会津西街道とも呼ばれ、会津藩主の18回にも及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であった。全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。茅葺きの家もかなり残されており、ほとんどの家が土産店やそば屋となっている。

以前の記録では、天正18年(1590)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録がある。

通りの両側に立ち並ぶ土産店、そば屋などの食事どころを合わせると40数軒ある。特にそばに関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でも民宿が数軒ある。本家扇屋は、大内宿でただ1軒だけの蔵に泊まれる民宿である。