半坪ビオトープの日記

甲斐善光寺


身延線善光寺駅の北に浄土宗の甲斐善光寺がある。武田信玄の信州攻略も天文22年(1553)の川中島の合戦以後、善光寺平をめぐる上杉謙信との激戦になるが、弘治3年(1557)の合戦で武田方が善光寺および戸隠付近を掌握し、北信の大部分を支配下においた。翌年、信玄は善光寺の本尊阿弥陀如来を始め、寺宝・梵鐘・一山の僧俗を甲州に移し、参道と門前町まで信濃とほぼ同規模の地割りを行って、板垣の里に伽藍の造営を開始した。これが甲斐善光寺の始まりである。永禄8年(1565)には本尊が入仏、3年後には七堂伽藍が整ったという。
しかし武田氏の滅亡が、甲斐善光寺に転機をもたらす。本尊阿弥陀如来は美濃・尾張・京都と転々とし、慶長3年(1598)に信濃に帰座した。以後は、前立仏を本尊として法灯を守り、浄土宗甲州触頭、徳川家位牌所として勢力を誇るが、宝暦4年(1754)の大火で全伽藍を焼失した。

現在の金堂は、寛政8年(1796)に完成した。善光寺建築に特有の撞木造の屋根は、本堂の横棟に礼堂の竪棟が連結して撞木の丁字型をしており、全面に裳階がある。桁行38.15m、梁間23.06m、高さ26.06mの東日本有数の木造建築物であり、堂々たる景観をみせている。

金堂正面の厨子に安置されている本尊銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像は、信濃善光寺の前立仏だった仏像であり、阿弥陀如来は像高147.2mと等身大で、鎌倉時代の建久6年(1195)の銘をもつ。ほかに2組の木造阿弥陀如来及び両脇侍像が安置されていて、山門・金堂・これらの仏像がともに国の重文に指定されている。
金堂中陣の吊り天井には、巨大な龍が2頭描かれ、手を叩くと共鳴する。日本一の規模をもつ鳴き龍であるという。金堂下には暗闇の中を手探りでたどる「お戒壇廻り」もある。

金堂の左には銅造毘盧遮那仏座像がある。江戸時代後期作の山梨県内における古い大仏では最大といわれる。

金堂より早く完成したとされる山門は、重層の楼門で、桁行16.88m、梁間6.75m、屋根幅22.9m、棟高15mである。和様と唐様を折衷した建造物で、正面は扉なしの通路、両脇には仁王像が安置されている。これは境内の内側から見た山門である。

昼食は、甲府B級グルメ鶏もつ煮が有名な「奥藤丸の内第8分店」に寄ってみた。もりそばセットが鶏もつ煮付きで850円と割安で、なおかつ鶏もつが柔らかく美味しかった。