半坪ビオトープの日記

酒折宮


甲府市東部酒折駅の近くに酒折宮(さかおりのみや)がある。日本武尊(倭建命)が東国平定の帰途、甲斐国に滞在したと記紀に記された命の行宮の地である。

江戸時代に入って俳諧が隆盛すると、酒折宮は連歌濫觴の地として注目される。酒折宮における命と御火焼の老人との歌のやりとり(命が「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌ったところ、火たきの老人が「かがなべて夜には九夜日には十日を」と下の句を詠み継いだ)が、筑波の道=連歌の始まりとされたからである。貞享3年(1686)には俳人大淀三千風が鎌倉から富士山を経て甲斐に入り、酒折を訪れている。

「柳子新論」を著して尊王斥覇の立場から、幕藩体制を批判した山県大弐が、宝暦12年(1762)に師の加賀美光章らとともに社殿を造営し、この「酒折祠碑」を建立した。碑文は、この地が「酒折宮」の旧址であるとし、「景仰の至りにたへず」と記す。
山県大弐尊王論者が弾圧・処刑された明和事件がおきたのは、それから4年後の明和3年(1766)のことである。

寛政3年(1791)本居宣長は、甲州在の高弟萩原元克の依頼により、「酒折宮寿詞」を撰文するが、のちに寿詞の碑を建立することを「何とやらん心よからず」として断る。それから40年以上のちの天保10年(1839)に「酒折宮寿詞」は平田篤胤の書による碑となり、建てられた。こちらの碑文は、414文字の漢字で彫られている。

酒折宮の由緒によると、日本武尊がここを発つときに「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」といわれ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けた。その「火打嚢」をご神体として塩海足尼が祀ったのが、酒折宮の始まりという。
社殿は大正5年に焼失し、昭和17年に再建されたものである。

拝殿の裏にある本殿は、拝殿の脇の林の間をくぐりぬけるとようやく認められたが、拝殿よりかなり離れて小さい建物だった。

当初の酒折宮は、現社地の北側の月見山にあり、旧跡古天神という。周辺には古墳やたくさんの石造物がある。月見山は現在、不老園という梅園として梅の名所になっている。不老園の脇の道を上っていくと連歌発祥の地の碑があるという。