半坪ビオトープの日記

向嶽寺

塩山駅の北西にある塩ノ山(553m)の南麓にある向嶽寺は、臨済宗向嶽寺派の本山である。康暦2年(1380)守護武田信成が抜隊得勝を招いて塩山向嶽庵を建立したのが始まりと伝わる。以後武田氏の保護を受け、信玄もみずからの祈願寺とし、寺領の寄進をした。山号は塩山と称し、嶽は富士山を意味する。南朝方との関わりが深く、後亀山天皇勅願寺にもなった。
「志ほの山差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば八千代とぞなく」と古今和歌集にも詠われ、塩山市の由来ともなった塩ノ山を借景につくられた庭園は、平成になってから修復され、江戸時代中期の景観に戻り国の名勝に指定されたが、公開されていないのが残念である。
天明7年(1787)再建の仏殿・開山堂は、一体化した独特の複合建物である。仏殿の右手には大きな庫裏があり、後方には書院や方丈があるのだが立ち入りが禁止されている。

「八方にらみの達磨」とも「朱達磨」とも呼ばれる、国宝の「絹本著色達磨図」は、日本最古級の達磨像といわれるが、国立博物館に寄託されている。そのほか、開山の師の絹本著色三光国師像・絹本著色大円禅師像の頂相(ともに重文)など寺宝は多数あるが、ほとんど公開されていない。本尊は釈迦如来座像で、開山当初のものと確認されている。本尊の後ろが開山堂となる。

壮大な伽藍は天明6年(1786)と大正15年(1926)の2度の火災で焼失したが、室町時代中期に建立された禅宗様の中門は、焼失を免れて重文に指定されている。石積壇上に立ち、親柱の前後に各2本の副柱が立てられた大型の切妻造の四脚門で、屋根は檜皮葺きである。中門の扁額は抜隊禅師が書いたといわれる。

築地塀は、小石を混ぜた土に、強度を増すために塩を入れてつくられたと伝えられ、塩築地と呼ばれている。築地塀の手前に堂々とした松が植えられている。「向獄寺の松、恵林寺の桜、方光寺の梅」といって、塩山の銘木の一つに数えられているそうだが、本堂前にも立派な松がある。

境内に古そうな石仏があったが、顔から胸元にかけて改修されていた。

境内右手には神仏習合の形をとっている、秋葉神社の二の鳥居と拝殿がある。元文4年(1739)に始まり、火伏せの神を勧請し、向嶽寺の鎮守として祀られている。