東照宮の五重塔の前の道(上新道)を北西に進むと、二荒山神社の楼門がある。下野国の僧、勝道上人が天平神護2年(766)大谷川北岸に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、神護景雲元年(767)に二荒山(男体山)の神を祀る祠を建てたのが始まりと伝わる。勝道上人は、さらに難行苦行を積み、天応2年(782)に二荒山初登頂を果たし、山頂に小さな祠(奥宮)を祀った。
境内東側参道の入口に建つ入母屋造の楼門は、昭和57年に造られたものであり、2階部分は欄干で囲まれ、扁額には「正一位勲一等、日光大権現」の金色の文字がまぶしい。
二荒山(ふたらさん)の名の由来には諸説あるが、観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。
男体山(二荒山)、女峰山、太郎山の三つの山の神、大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を総称して二荒山大神と称し、主祭神とし、神が鎮まる霊峰として古くから信仰されてきた。また、この日光の神々は、父・母・子の親子神として、「日光三山」「日光三所大権現」などとも呼ばれてきた。
鳥居をくぐり、右手の大きな社務所を過ぎた拝殿の前に、正面参道の大鳥居から上がったところに建つ、朱塗りの神門がある。楼門と同時期に建てられたものである。
夏越しの大祓(なごしのおおはらえ)である6月30日が近いせいであろう、茅の輪が用意されていて、くぐりかたも説明されていた。
境内には大きな杉の木がたくさんあり、特別に巨大なものは神木となっている。拝殿前から見て、神門の左手の二本は夫婦杉という。右にある三本は親子杉という。
さらに右手の神楽殿近くに三本杉がある。
大きな拝殿は、間口16m、奥行き12mの単層入母屋反り屋根造の黒漆塗り銅瓦葺で、総弁柄漆塗りで回り縁がある。正面中央に石段があり、その上3間は両開きの唐戸だが、そのほかは全部蔀戸になっている。
日光の殿堂の中では珍しく彫刻などの装飾がないが、単純で豪壮な印象を与える。造営年代は正保年間(1644~48)頃と考えられている。拝殿の奥は石段で下り、渡り廊下で唐門を通ると本殿に続く。
2代将軍秀忠が寄進した安土桃山様式の優美な八棟造りの本殿は、元和5年(1619)造営当時のままのただ一つの建造物として重文になっている。間口11m、奥行き12mで、7mの向拝が付く。単層入母屋反り屋根造の黒漆塗り銅瓦葺で、正面は千鳥破風、向拝軒唐破風付きである。本殿の四方は縁側で、内部は弁柄漆極彩色。内部は内陣・外陣と分かれ、内陣に神霊が祀られている。外部全面に飾り金具を施し、1間1戸の平唐門、棟門の掖門、格子組みの透塀が本殿を囲んでいる。