半坪ビオトープの日記


塩竃神社は、武甕槌神経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられている。中世には奥州藤原氏の崇敬を受け、文治6年(1190)伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられた後、次代より留守姓を名乗って管理権を掌握した。室町時代には幕府から派遣された奥州管領が、江戸時代には伊達家が奉納・寄進している。
この文治の灯籠には「文治三年七月十日泉三郎忠衝敬白」との文字が刻まれていて、松島へ行く前にここに参詣してそれを見た芭蕉は、「五百年来の俤、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳名今に至りて、慕はずといふことなし。誠に、人よく道を勤め義を守るべし。」と「おくのほそ道」に記している。文治3年7月とは、源頼朝義経の軋轢が奥州藤原氏鎌倉幕府との対立まで発展し、義経引き渡しの宣旨・院宣が平泉に下された頃であり、秀衝三男の忠衝による灯籠寄進は、平泉の平穏と義経の無事を祈願した行為と推測される。義経最大の庇護者である秀衝が急逝したのは文治3年(1187)10月である。その後二男泰衝は、父秀衝の遺言に従い義経を庇護するが、頼朝の圧迫に屈して義経を急襲し自刃に追い込んだ。忠衝は父の遺志を継ぎ最後まで義経の力となったが、泰衝により殺された。この機に頼朝は大軍を率いて自ら出陣し泰衝を滅亡させ、文治5年に奥州藤原氏の平泉文化は幕を閉じた。

唐門の左手に境内社があり、稲荷・住吉・八幡・神明の4社が祀られている。その手前に神木杉が立っている。樹高31m、胸高周囲2.1m、推定樹齢800年の巨木である。

東回廊に沿って満開のサクラの花の中を東に進むと東神門に出る。

階段を下りて左に進むと、延喜式式内社志波彦神社がある。冠川河畔に降臨されたとする志波彦神を祀る神社である。神門もかなり豪華にできている。

志波彦神は塩竈の神に協力した神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰を集めている。明治時代に塩竃神社の摂社とされた。現在の社殿は昭和13年に造営されたものである。拝殿は桁行5間、梁間3間、入母屋造栩葺きで、左右と背面に高欄付の廻縁をもつ。

拝殿と同様本殿も朱漆塗りだが、本殿は杮葺き流造で、彫刻部分は極彩色漆塗りとなっている。志波彦神社は、全額国費を以て造られた最後の神社といわれている。