半坪ビオトープの日記


瑞巌寺の詳名は、松島青龍山瑞巌円福禅寺という。天長5年(828)慈覚大師円仁により開創され、天台宗延福寺と称した。鎌倉時代中期の13世紀半ば、執権北条時頼法身性西和尚を開山とし圓福寺と改称、建長寺派の禅寺にあらためたが、戦国時代には寺勢は衰え妙心寺派となった。江戸時代始めに政宗が大伽藍を完成させ、遺言で来松した雲居禅師の努力で名実共に奥羽の大禅刹となり、周辺に円通院・陽徳院・天麟院などが造営された。
総門は1間1戸袖塀付の薬医門で、慶長14年(1609)伊達政宗によって建立された。
扁額には右から「桑海禅林」と書かれ、「扶桑と呼ばれる日本の、海辺近くに建つ禅の寺」という意味であり、当山105世天嶺性空の最晩年の筆による。
総門をくぐると杉木立が続く参道になるが、右に折れて洞窟群に向かうと大きな鰻塚に出会う。
大正12年松島湾で捕れた鰻の供養として、地元民の寄付金で建立されたものである。

この洞窟群は、元来納骨や供養のための施設で、造営は鎌倉時代に遡り江戸時代まで続いた。
観音像や五輪塔、笠卒塔婆など無数の墓標が安置されたり、壁面に彫りつけられている。

崖際には苔むした洞窟、石碑、石塔、石像が並んでいて厳粛な雰囲気があり、修行場として奥州の高野山と呼ばれたという。

10年がかりの平成の大改修のため、瑞巌寺の本堂・中門・御成門などは非公開となっているが、臥龍梅を見る特設台が設けられていた。
伊達政宗が文禄2年(1593)秀吉の命で朝鮮に出兵した折、兜を植木鉢にして持ち帰り、慶長14年(1609)の落慶の時に政宗が手植えしたという。紅白ともに八重咲きで、今年は例年に比べ遅れてGWの時に満開になっていた。

御成門は入母屋造本瓦葺の薬医門、中門は切妻造杮葺きの四脚門で、国の重文だが工事中である。国宝の本堂も工事中だが、慶長14年完成の入母屋造平屋本瓦葺で、奥行き25m、正面39mある。