半坪ビオトープの日記


つつじ苑は、徳川綱重が庭につつじを植えたことに始まり、7000坪の神苑は世につつじヶ岡と呼ばれる府内の名勝だった。

現在は約2000坪の苑内に、約50種3000株が咲き乱れる。

入口脇に大きな石が積み重ねてある徳川家宣胞衣塚がある。この境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣はここで生まれた。
胞衣(えな)とは胎児を包んだ膜と胎盤をいい、古来より胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば熊野では大石の下に納めたと伝えられ、関東では家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれる。信州諏訪では胞衣信仰といわれる。上流階層では胞衣塚を築くことが早くから行われ、愛知県の岡崎には徳川家康の胞衣塚がある。

つつじ苑の塀の外側に弥生正縁館が見える。明治の和洋折衷の洋館だが非公開なので、つつじ苑から見るしかない。

つつじ苑の手前には乙女稲荷の参道があり、たくさんの鳥居が立ち並んでトンネル状態になっている。
その手前の参道に小さな水飲場がある。その台座は、陸軍軍医監だった森林太郎(鴎外)が日露戦争の戦利砲弾を奉納したときの台座をリサイクルしたものである。