半坪ビオトープの日記


下田の海に突き出た弁天島は、鷺島とも呼ばれる。今は陸続きになっているが、昔は小島だったという。

この岩山の入口には、松陰遺墨七生説の碑と金子重輔の顕彰碑がある。松陰は生前、自分の碑よりも重輔の碑を建てたい、との話をしていたとのことで、重輔の碑が明治28年に、松陰の碑が明治41年に建てられた。遺墨は松陰自筆の字を拡大して彫ったもので、安政3年、松陰27歳の作である。

この岩山の海側に、ささげ弁天とも呼ばれる弁天堂がある。鷺島神社ともいうが、御神体津波で流されたようで、今は何もないという。

この弁天堂は黒船がやってきたとき、吉田松陰金子重輔とともに渡航を企て潜伏した場所で、中に穴があってぐるりと島を廻れるので隠れることができたという。

弁天堂の奥には下田龍神宮がある。鬼子母神の神授の詞によって下田城主の守護神でもあったそうだ。その奥も崖に沿って道があり、窟があって以前は胎内潜りのようにぐるりと巡ることができたようだ。

弁天島の先端の公園には松陰と重輔二人の「踏海の朝」の像がある。松陰は上陸していたアメリカ人に投夷書と呼ばれる密航依頼文を渡し、その夜に弁天島からポーハタン号に向かったが、アメリカ側に拒否されたために計画は失敗に終わった。流された小舟の荷物が柿崎の名主に届けられたこともあり、松陰は自首し下田で拘禁された。下田から江戸に送られた後、故里の萩で松下村塾を開き子弟の教育にあたったが、安政の大獄連座して刑死した。
松陰の無念を心に刻んだ、高杉晋作桂小五郎などの弟子達が尊王攘夷の急先鋒となって、全国に志士と呼ばれる若者達を誕生させた。その至誠の精神がこの「踏海の朝」の像の松陰の姿に見いだせよう。
下田平滑獄中の記には、「世の人はよしあし事もいはばいへ賊が誠は神ぞ知るらん」とある。