半坪ビオトープの日記


ペリーロードを戻り、町の西に位置する大安寺に向かう。途中、了仙寺の向かいあたりに「欠乏所跡」という石碑があった。
安政元年に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では、薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。ペリー艦隊が入港すると、貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等がここで売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で事実上の貿易が開始された。今では、貿易所跡「平野屋」がステーキ・コーヒーを提供している。

アメリカに密航しようと思って下田に来た吉田松陰金子重輔の二人が、はじめに宿を取った旅館・岡村屋跡は、下田屋旅館として今も営業している。

下田のメインストリート、マイマイ通りから300mも路地を入った奥に大安寺がある。

乳峰山大安寺の創立年代は不明だが、創建当時は因善寺と称し、真言宗であった。天正18年(1590)僧、寂用英順が二世となり曹洞宗に改宗と伝えられる。山号の乳峰山は、裏山の形状が乳房に似ることに由来する。

大安寺の裏山で下岡蓮杖は、ハリスの通訳ヒュースケンから写真の技術を秘かに伝授されたとも伝えられている。

裏の墓地には薩摩十六烈士の墓がある。貞享5年(1688)日向国佐土原藩藩士が、将軍家御用材を江戸へ送る途中、遠州灘で嵐に遭い、積荷の一部を海に捨てて危うく遭難を逃れ下田に入港した。しかし御用材を捨てた責任を取り、3名の武士を含め15歳の少年まで乗組員16名全員が切腹し、大安寺に埋葬された。もちろん故郷の宮崎市佐土原町にも佐土原藩十六烈士の墓はある。船に残っていた栂の木は寺に寄進され大安寺の本堂の柱になっている。