半坪ビオトープの日記


鍋田口からトンネルをくぐり市内に向かって数分戻ると、下田開国博物館がある。昔ながらのなまこ壁が何やら仰々しい。入館料が高い(1000)のも気になるがとりあえず入ってみると、下田太鼓祭りを再現した人形達のコーナーでも撮影禁止となっていた。

それでも別館を含めると館内は意外と広く、ペリーやハリス、吉田松陰など開国の歴史に関わる人々の遺品や写真など、黒船来航時の資料がかなり多く展示されていた。黒船来航記念館の別名もあるこの資料館は、常時1000点もの資料を展示している。ミシュランの旅行ガイドでも「二つ星」に選ばれているという。

開国博物館から東南に向かって少し歩くと、日米下田条約が締結された了仙寺がある。日蓮宗の了仙寺は、寛永12年(1635)第2代下田奉行・今村正長により創建された。
大坂夏の陣のとき目に病を持った徳川家康は、目の神様として崇められていた身延山久遠寺の日朝上人に病気平癒の願をかけたが、その祈願が成就したため政権が安定したら寺を建てることを約束した。今村正長により創建された了仙寺には、将軍家光より朱印状によって領地が与えられ、家康の祈願成就に奉じた。そのため了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵である。

安政元年(1854)日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となり、和親条約の細かい取り決めである下田条約がここで結ばれ、ここと玉泉寺がアメリカ人の休息所に指定された。境内には宝物館があり、黒船来航に関わる資料や寺宝、ペリーの遺品や開港当時の下田の様子を伝える資料などが展示されている。

今村正長は三河以来の徳川家の旗本で、老齢の父に継いで第2代下田奉行となると、江戸の海の玄関口として入港する船は幕府により調べるよう定められていたので、自費で下田港に防波堤を築き、植林して港に入る川の水を浄化し、了仙寺と八幡神社を創建するなど下田の繁栄の土台を築き、その功績は下田の歴史上並ぶものがないという。了仙寺の今村家墓地には第2代奉行の正長・4代奉行の正成・5代奉行の正信の墓がある。高さ3mほどもある大きな五輪塔である。

境内右奥に了仙寺横穴遺跡の洞窟がある。古墳時代(約1300~1400年前)に墓として利用されていたらしく、洞窟内より人骨とともに勾玉などの玉類、金銅製の腕輪などの装身具、土師器、須恵器が出土している。伊豆南部には洞窟や岩陰に死者を埋葬した遺跡がこのほかにもいくつか知られている。