半坪ビオトープの日記


智満寺には「信州猫檀家」の伝説がある。
昔、応仁の乱が終わった頃(1500年頃)智満寺の宗芸和尚が一匹の猫を飼っていた。飢饉のため「今のうちにどこか食べ物のある所へ行きなさい」といわれた猫は、「いつか恩返しをします」と出て行った。その数年後、信濃国大河原村の名主の娘の葬式の際、黒雲が舞い降り娘の亡骸が消えてしまった。そこに元智満寺にいた猫が現れ「遠江国川根の智満寺の和尚に頼めば必ず取り戻せます」といって立ち去った。名主達に頼まれた智満寺の和尚がお経を唱え終わると、娘の亡骸は棺の中に戻っていたという。大河原村の香松寺は、その時から智満寺の末寺になったそうだ。香松寺の記録に宗芸和尚が中興の開山(1501)と記され、その後ずっと智満寺との交流が続いているという。
智満寺の本堂では年間の主な行事が行われる。

現在の本堂は、延享2年(1745)の大火により焼失したが、第13世一音法牛禅師により再建され、以降に増改築を重ね今日に至っている。
この一音和尚には、「火防大師一音さま」という伝説がある。一音和尚は遺言で、「村がよく見える高台に埋葬してくれれば村中から火事が出ないよう見守る」と言い残した。その後一度も火事が出ないので、一音和尚の徳を慕う村人は、毎年「一音さん、一音さん」と呼びながら盛大な法要を行い、家々のかまどに一音和尚様を祭り、火の守り神として信仰しているという。

本堂内陣の天井には、花鳥の絵天井300枚がある。

本堂内陣の入口には覺王殿と書かれた額が掛けられ、内陣を囲むように禅の古則公案の欄間10数枚がある。

天井から下がっている大きな木彫りの魚板は、魚鼓(飯ぽう)という。僧侶に食事を告げるために叩く。

日本美術院の特待画家である那波多目煌星画伯の院展入選の大作10数点が常設展示されている。