半坪ビオトープの日記


島田市民病院西にある真言宗の鵜田寺は、「眼薬師さん」と呼ばれ親しまれている。
創建は天平宝字2年(758)と伝えられ、本尊の木造薬師如来坐像は、寄木造りで平安時代末期の作と推定されている。この薬師如来は、弘仁13年(822)頃編纂された「日本霊異記」と元亨2年(1322)成立の「元亨釈書」に、この辺りの砂中から掘り出され、御堂を建てて安置されたことが記されている。

本尊の由来が刻まれた直径40cmの鰐口には、「元亨釈書」の引用文と大栄5年(1525)の銘が入っている。

釣鐘堂と書かれた鐘楼の右向こうには市民病院がある。毎日18時に規則正しく撞かれる鐘の音は、終業のチャイム代わりという。

寺の前の病院に入る右に「髪の塚」がある。その前で毎年9月第三日曜日に島田髷供養祭が行われ、鵜田寺の本堂の中には島田髷のバリエーションが展示される。島田髷は今でも多くの女性の婚礼のときの髪型の定番となっている。

髪の塚の背後に島田髷の考案者といわれる島田出身の大磯の遊女、虎御前の宝篋印塔の墓がある。三体の中央の墓がそれである。
虎御前は、建久4年(1193)の仇討ちで名高い曽我十郎の妾であったが、十郎の死後出家し、大磯で兄弟の供養に明け暮れたといわれ、平塚で生まれたというのが定説である。島田髷の由来にも諸説あり、島田宿説が有力とはいえ、実際に島田髷が流行したのは江戸時代である。