半坪ビオトープの日記


東海道五十三次の22番目の宿場である藤枝宿の近くに、日蓮宗の円妙山大慶寺がある。門柱だけの門から入ると、本堂前に見事な松の大樹が聳えている。大慶寺開祖日蓮上人お手植えの「久遠の松」である。
寺伝によると、建長5年(1253)比叡山や奈良の寺院で修行を終えた日蓮上人が、故郷安房への帰途に立ち寄った際、説法に感応した茶店夫婦(道円・妙円)が熱心な法華経信者となり法華堂を建てたのが始まりという。袴腰付鐘楼堂の左の墓地には、太田資直や本多家など田中城主・藩士の墓がある。

天文年間(1532~54)に、大円院日連がこの法華堂で説法しながら寺院を建立し、円妙山大慶寺と名付けた。
その後、天和3年(1683)、宝永5年(1708)と二度の火災で堂宇や寺宝等を焼失したが、その都度檀信徒の努力で再建されてきた。
田中城11代城主の田中氏の時代に藩主の菩提寺となり、以降の家老や藩士が檀家となり、さむらい寺と呼ばれるほど繁栄したという。

「久遠の松」は、樹高25m、枝張り27m、根回り7mのクロマツで、県指定の天然記念物である。樹齢約750年で、日本の名松100選にも選ばれているだけあって、その堂々たる大きさには驚かされる。

明治37年(1904)近くの川の工事の際に、仏像が刻まれた石碑が2基見つかった。1基には「道円・妙円」の名が、もう1基には南無妙法蓮華経の題目が刻まれていて、寺伝を裏付けることとなった。この墓碑は現在、「久遠の松」の根元に建つ宝塔の中に安置されている。
本堂の右に見える客殿(庫裡)は、老中・田沼意次(相良城主)の御殿を移築したものである。天明6年(1786)田沼意次が失脚したため相良城が解体された際に、御殿を相良から運び再建した。豪壮な城郭御殿建築である。