半坪ビオトープの日記


出羽三山の麓にある門前町の手向(とうげ)には宿坊が建ち並ぶ。町並の左手に羽黒山正善院黄金堂がある。
創建については記録はないが、神亀5年(728)に聖武天皇が勅願所として建立したという伝承が伝わっている。
その後、建久4年(1193)源頼朝が奥州征伐後、戦勝報謝のため土肥実平を工事奉行として再建させたと伝えられる。羽黒山修験・峰入り時に奉納された草鞋がたくさん結びつけられた山門の前には、南無観世音菩薩の旗が何本も立てられている。

堂宇は5間4面の宝形造で、頂に宝珠を載せ、四方に回掾をめぐらし、床下を幾分高くして壇組の石段上に建っている。屋根は四柱造、茅葺きだったが昭和42年の解体修理の際、銅板葺きにかえられた。正面にある一間の向拝は、文禄5年(1596)に酒田城主甘糟景継が大修理したとき取り付けたもので、その蟇股には「十万」という文字を丸で囲み、左右に沢潟が配してある甘糟氏の定紋がある。国の重文にも指定されている。

羽黒山頂の大金堂(三神合祭殿)に対し、小金堂といい、33体の観音像が黄金に映えることから黄金堂と呼ばれるようになったそうだ。

境内には宝形造り茅葺きのお竹大日堂がある。お竹大日の縁起によると、この庄内から江戸日本橋大伝馬町佐久間家へ女中として長く住込み、晩年は家事一切をまかされていた。佐久間家は、優しい心を持ち情け深く勤勉だったお竹が亡くなった後、木像を彫刻し家の護り本尊として祀った。寛文6年にはこの黄金堂境内に、「お竹大日堂」を建立し祀った。後に、五代将軍生母の桂昌院が、女中姿の木像を芝増上寺山内心光院に祀り、奥女中にも信仰させたことから、お竹さん信仰が江戸でも盛んになったといわれる。

山門を入ってすぐ左には書記官を従えた閻魔の石像が安置されている閻魔堂があり、その右には仏足石もある。

黄金堂の向かいにある正善院は、神仏習合時代の羽黒山十大寺の一つで、羽黒山修験道本部として、羽黒山奥の院である荒沢寺を管理し、秋峰入りの下宿、籠堂として寺務一切を行っており、皇子の重要な仏像や資料が多数保存されている。