半坪ビオトープの日記


弘前城の南西、風水の裏鬼門にあたる茂森町に長勝寺がある。
長勝寺の総門にあたる黒門は、城郭建築に見られる高麗門形式で、長勝寺一帯が弘前城の出城として格付けされていたと推定されている。

慶長16年(1611)弘前城を造営した津軽信政がこの地に曹洞宗三十三ヶ寺を集めた。これは法華経三十三観音にちなむ数で、同一宗派で造られた寺院街は全国的に見ても類例がなく珍しい。

この禅林三十三ヶ寺の入口に空堀と土塁を築いて桝形を設けた。これを弘前城長勝寺構と呼び、昭和27年に国史跡に指定されている。

入り口近く、黒門の左手に六角堂(栄螺堂)がある。実際は八角形の堂であり、堂全体が阿弥陀如来の仏体を意味し、右回りの回廊をくぐり抜けることによって罪を消滅させ、新しく生まれ変わることができるという信仰を体験する建物である。内部は一回り半で塔の頂上部に至り、そこから梯子で下りてくる簡略型だが、江戸の栄螺堂ブームから約半世紀後に本州北端まで伝わっていたことになる。天保10年(1839)弘前の豪商中田嘉平衛が寄進した。

長勝寺の三門は、嘉永6年(1629)2代藩主信枚により建立され、数度の改造を経て文化6年(1809)に現在の形になった。棟高16.2mの禅宗様の楼門で、柱を上から下まで通し柱とする特徴をもち、江戸時代初期の重要な建築遺構とされる。楼上には薬師如来三門本尊が安置されている。
三門とは「三解脱門」の略で、修行の妨げになる心身の汚れである貪欲、愚痴などを脱する門という。