半坪ビオトープの日記


仁王門をくぐると石段が本堂まで399段続く登楼がある。登楼は、春日社司中臣信清が観音様の霊験により子息の病気が回復したお礼に、長暦3年(1039)寄進建立された。現在の下、中登楼は明治22年の再建であり、屋根付きの登楼には八方(長谷型灯籠)が下がっている。

登楼を上がり始めてすぐ右に道明上人御廟所の石塔がある。

続いて宗宝蔵、月輪院、左に歓喜院、梅心院、慈眼院、金蓮院が建っている。宗宝蔵には寺宝が納められていて、適宜入れ替え展示されている。

撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。国宝の「銅板法華説相図」(千仏多宝仏塔)は複製が展示され、本物は奈良国立博物館に寄託されている。銅板下部に道明上人が戌年天武天皇の病気平癒のために作ったと刻まれている。戌年は、寺伝では朱鳥元年(686)とするが、研究者の間では文武天皇2年(698)とする意見が多い。ほかにも平安時代地蔵菩薩像や不動明王像などが特別展示されていた。

登楼の両脇にはボタンがたくさん植えられている。江戸時代に寺の学僧たちが薬用として栽培し始めたのが発端といわれ、150種7000株のボタン園は日本一といわれる。GWはぼたんまつりの最中だったが、今年は例年より開花が遅れていたようで、まだ半分も咲いていなかった。

上楼への登り口右に蔵王堂とともに、初瀬詣での際に「人はいさ心も知らず故里の花ぞ昔の香ににほひける」と詠った、紀貫之ゆかりの梅の木がある。
初瀬(泊瀬)にかかる枕詞は隠国(こもりく、「く」は場所の意)で、万葉集では柿本人麻呂が次のように詠っている。
こもりくの 泊瀬の山の山の際(ま)に いさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ (巻7−1408)
清少納言は初瀬に詣で「初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」と「枕草子」に書き、菅原孝標の女(たかすえのむすめ)も「更級日記」に、三日三晩初瀬に参籠して感動した旨を書き記している。