半坪ビオトープの日記


桜井市多武峰(とうのみね)にある談山(たんざん)神社は、父、藤原鎌足の追福のため、唐より帰国した僧で長男の定慧と次男不比等によって墓を摂津から移し、白鳳7年(678)に十三重塔を建立したのが発祥である。
そもそも「多武峰縁起」によれば、飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原の鎌足)が、蘇我入鹿を討つ大化の改新(645)の談合をこの裏山で行ったという。今でも談い山(566m)が本殿裏山にある。
境内に入るとすぐに蹴鞠の庭があり、この日の昼頃にはけまり祭りが行われていた。庭に面したこの神廟拝所は、定慧が白鳳8年(679)父鎌足の供養のため創建した妙楽寺の講堂であり、寛文8年(1668) の再建だが重文に指定されている。天智天皇8年(669)鎌足の死の直前、天皇は大織冠という最高冠位を授け、藤原の姓を与えた。

神廟拝所の内部壁面には羅漢と天女の像が描かれ、重文である鎌足の神像が安置されているが、白布が垂れていてよく見えない。
両脇には小さな木像の不比等公像と勝軍地蔵が祀られている。鎌足の化身といわれる右の勝軍地蔵は、神仏習合の神であり、目は三眼で甲冑をまとい、勝運の神として信仰されてきたという。

かすかに透けて伺える鎌足の神像を見ると、意外と顔が大きい。江戸時代初期の作で、元は飛鳥にあった藤原寺で祀られていたものを、廃仏毀釈の際にここに移されたそうだ。

右には運慶作と伝えられる狛犬が置かれているが、それほど迫力を感じさせない。ほかにもいろいろと展示されているが、どことなく雑然としている。

この扉の中には鎌倉時代作の如意輪観音像が祀られているのだが、普段は秘仏とされて公開されていないのが残念である。談山神社に残る唯一の仏像というのだからなおさらである。

神廟拝所の裏には八重桜と桃の花が咲いていた。