半坪ビオトープの日記

2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

三囲神社から見番通りを北に少し行くと黄檗宗の牛頭山弘福寺がある。かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城址に寺地を受け、ここに移し現在に至っていると伝えている。 開山は鉄牛道機禅師…

社殿の裏手には珍しい「三柱鳥居」がある。「三角石鳥居、三井邸より移す。原形は京都太秦、木島神社にある」と書かれているように、蚕の社とも呼ばれる木嶋(このしま)神社にある石造三柱鳥居が最も有名である。現在のものは天保2年(1831)に再建された…

前にも記したように三囲(みめぐり)神社は、昔「田中稲荷」と呼ばれていたという。近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際、この荒れた祠を再建したとき、土中より白狐にまたがる老翁の像を得、そのとき白狐が現れ神像を三回廻って去ったというが、それは鎌倉時…

元禄6年(1693)旱魃のとき、俳人其角が偶然当地に来て、地元の農民達の哀願により、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日降雨をみた。このことからこの神社の名は広まり、京都の…

牛島神社の東を通る見番通りを北に少し進むと、左手に三囲(みめぐり)神社の大きな社号票と一の鳥居が建っている。扁額には「三圍社」と書かれている。 三囲神社は、現在地より北の田んぼの中にあって「田中稲荷」と呼ばれていたという。文和年間(1353~55…

牛嶋神社の名の由来は、両国・向島の本所一帯が牛島といわれ、天武天皇の時代(701~64)に国営牧場が設けられ浮島牛牧と呼ばれていたからという。 社殿のすぐ右には小振りの小梅稲荷神社があるが、詳細は不明である。昔この辺りは小梅村といったのでかなり古…

隅田公園の水戸徳川邸跡の庭園の東に牛嶋神社がある。 古くは長命寺の近くにあり、牛御前社と称していたが、関東大震災後の隅田公園の設計の都合上廃社となり、昭和初期に現在地に再建された。明治初年の神仏分離後、牛嶋神社と改められた。 牛嶋神社の拝殿…

墨田区役所前に勝海舟の銅像が建っている。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取り決めた海舟は、文政6年(1823)に本所亀沢町(両国4丁目)で生まれた。 生誕180年の平成15年に海舟の功績を顕彰して「建てる会」から銅像が墨田区へ寄贈され…

先週、まだ満開の桜が咲いていた頃に、隅田公園に花見に出かけた。浅草駅前の吾妻橋交差点には懐かしい神谷バーが今でも建っている。 昔、業平橋で働いていた頃、日本初のバーであるこの神谷バーに時々寄ったものだが、名物のデンキブランはかなり強くて5杯…

日曜日に、数年前に分家しておいた埼玉の大利根月夜さんから、何代目かの里帰りとしてヤマアカガエルの卵をいただいた。 産卵からもう2週間ほど経っているというので、有精卵ならばそろそろオタマジャクシになるはずである。 卵は、池の中のミツバの葉の手…

偕楽園の東に接している常磐神社は、2代藩主徳川光圀(義公)、9代藩主徳川斉昭(烈公)を祀る神社で、明治7年(1874) に梅林の一部を境内として社殿が完成した。 斉昭が国旗を日の丸に定めたとして、国旗制定祈年祭を神事としている。戦災によってほとん…

好文亭の塗縁から東を眺めると、大きな左近の桜の木の陰に梅まつりの本部が見える。左には梅林がわずかに見える。 見晴広場にある左近の桜は、仁孝天皇皇女登美子が斉昭に降嫁した際、京都御所紫宸殿から植えられたものだが、後に枯死したため昭和38年にあ…

偕楽園も東日本大震災では大きな被害を受けた。好文亭でも内外の土壁が剥離、落下したほか、ふすまや雨戸などの建具も損傷したという。 復旧工事に伴い順次開園区域を拡大し、24年2月の梅まつり直前に全面復旧し、好文亭の公開も再開したばかりである。こ…

偕楽園は名園として名高く、日本三公園の一つに数えられている。その名称は、中国の古典である「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、藩主のためだけでなく家臣や庶民の遊園にも供された。簡素な芝前門(し…

今年の梅の開花は大幅に遅れ、偕楽園開園170周年記念水戸の梅まつりも終りに近づいた3月中旬になってようやく満開に近くなってきた。 駐車場はどこも混雑していたが、なんとか桜山駐車場の一番奥に止めることができた。梅桜橋を渡って偕楽園に向かう。 …

主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)は、大国主命などの別名をもつ神々の中でも中心的な位置を占める神で、記紀神話ではスサノオの子または子孫とされ、国造りを行った。 本殿は、一間社流造茅葺きである。本殿、拝殿は、元禄年間に水戸藩主徳川綱條によ…

大洗磯前神社は、酒列磯前神社と対になっているのだが、一回りも二回りも大きい。 県道を跨いで建っている、大きな一の鳥居をくぐって小高い駐車場に上ると、神門前の階段下の道路脇に二の鳥居と海が見下ろせる。 磯前神社の二神降臨の地を神磯といい、海上…

由緒記によると、建久2年(1191)源頼朝は神馬33頭神領地寄進社殿修繕を行い、応永29年(1422)水戸城主初代江戸道房より約200年間は江戸氏が修繕にあたり、元禄15年(1702)には水戸藩主三代綱條により隣接する椿山という西方の台地から社地が移…

酒列磯前神社は、天安元年(857)には官社、延喜式神名帳では、酒列薬師菩薩神社として名神大社に列せられている。 現在の社殿は、元禄時の木材・彫刻等を再利用し、昭和9年から国費で改築された。 拝殿入口の上部にある防火のための「懸魚の彫刻」は、「ブ…

平磯海岸に沿う台地には100基を超える三ツ塚古墳群があり、海岸から数キロ離れたところに虎塚古墳がある。平磯海岸の北、磯崎の岬上の台地の上に酒列磯前(さかつらいそさき)神社がある。「文徳天皇実録(879)」によれば、創建は斉衡3年(856)である。中…

水戸から那珂川に沿って太平洋に向かい、アクアワールド大洗の手前で左に折れるとひたちなか市に入る。那珂湊漁港の先の海岸線一帯を平磯海岸と呼ぶ。 天保4年(1833)に水戸藩主徳川斉昭が雄大な景観に感銘し、水戸藩随一の波浪の見所として観濤所の碑を建…

ここに来れば、納豆の起源や水戸納豆が全国的に有名になったわけなどが分かるという、納豆なんでも展示館が水戸駅の北口の近くにある。 大豆を原料にした日本を代表する加工食品である納豆の起源は、遠く弥生時代にあるいは奈良時代に、中国から伝来したと伝…

茨城県立歴史館は、県の歴史に関する資料を収集・保存・公開している。常設展は、県内の歴史を民俗・考古・古代・中世・近代の各部門に分け、豊富な資料やジオラマ、映像などを使って展示・紹介している。 特に興味を引くのは、東日本で最も鮮やかな装飾古墳…