半坪ビオトープの日記

厳原町、郷土食

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長寿院

厳原町日吉の長寿院には雨森芳洲の墓がある。雨森芳洲1668-1755)は、朝鮮王朝から幕府に派遣された外交使節団「朝鮮通信使」に随行し、日本と朝鮮との親善外交に尽力した対馬藩儒学者である。裏山を登ると芳洲の墓があるのだが、今回は先を急いで省略した。

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半井桃水

長寿院のすぐ右隣に、半井(なからい)桃水の生誕の地と伝わる半井桃水館がある。桃水関連の資料が展示されている。半井桃水は、万延元年(1860対馬の厳原に生まれた。家は代々藩医で宗家に仕えた。幼名・泉太郎は、父の任地・釜山で働いた後に帰国し、明治8年(187516歳の時上京し、英学塾「共立学舎」に学んだ。明治21年(1884)東京朝日新聞者に入社し、その前後より新聞小説を書き始めた。樋口一葉は明治24年に指導を仰ぐため桃水のもとを訪れた。

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桃水関連の資料

半井桃水は、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在した。日露戦争にも従軍記者として関わったジャーナリストとして、日鮮関係の歴史の一コマを成す亀浦事件に顔を出す活動家でもあった。長唄や俗曲の作詞作曲者、劇評家と活動は多彩だった。大正1567歳で福井県敦賀の病院で死去するまで、300編以上の小説を書いた。墓は東京都文京区駒込の養昌寺にある。

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対馬藩お船江跡

厳原町の中心地から少し南に行った、久田浦に注ぐ久田川の河口に対馬藩お船江跡がある。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成という。対馬藩の御用船を繋留した船溜りで、「お船屋」とも称した。築堤の石積みは当時のままで、正門・倉庫などの遺構も残っていて、遺構例の乏しい近世史上貴重な遺構として、県指定史跡に指定されている。

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1800年頃の町割図

近くに「1800年頃の町割図」が掲示されていたが、それを見ると厳原港で荷揚げする藩船の格納庫として、少し離れていて開発されなかった入江にあったことが、保存された理由と考えられる。

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サザエの刺身

厳原町には2泊したので、ここで食事のいくつかを拾い上げておく。これはサザエの刺身。大きなサザエだったので、コリコリした食感が楽しめる。肝も新鮮で安心して美味しく食べられた。

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「白嶽純米酒つしま」と対馬麦焼酎対馬やまねこ」

お酒は対馬唯一の酒造、河内酒造の「白嶽純米酒つしま」と対馬麦焼酎対馬やまねこ」を買い求め、毎晩、部屋飲みした。どちらも美味しく楽しめた。

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「とんちゃん」

こちらは対馬ご当地グルメ「とんちゃん」。戦後、在日韓国人から伝えられた焼肉料理を地元の精肉店が工夫を重ねて地域に広まったとされる、上対馬の定番料理。豚ロース肉を醤油や味噌をベースにニンニク、ごま油などの調味料に漬け込んで焼いたソウルフード。柔らかくて美味しい。

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「豆腐入り鹿肉ハンバーグセット」

こちらは「豆腐入り鹿肉ハンバーグセット」。島の9割が山地という対馬では、近年、猪や鹿が増え、今では対馬の人口より多い4万頭以上の猪や鹿がいるという。駆除された猪や鹿のジビエ料理を扱う店もいくつかある。

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鹿と猪の肉を使ったソーセージ

以上は、観光案内所「ふれあい処つしま」の食堂での様子。こちらは売店で、対馬の鹿と猪の肉を使ったピスタチオ入りソーセージとガーリック風味のソーセージ。部屋飲みのつまみに買って、美味しくいただいた。

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「国産み神話と対馬

観光案内所では、「国産み神話と対馬」などの解説がある。古事記の国産み神話では、イザナギイザナミ神の国産みにより、対馬大八島の一つとして6番目に誕生する。対馬古事記では「津島」と表記され、別名は「アメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)」という。名の語義は不詳だが、「サデ」を魚をすくい取る漁具の「小網(さで)」と考えると対馬の形を小網に例えた神名と考える説もあるという。

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「九州最多の式内社

和多都美神社のところでも説明した「九州最多の式内社」の解説がここにもあった。対馬を一周しながら、名神大社とされる6社全てを含め、29座の式内社の約半分を見て回る計画である。

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刺身の盛り合わせ

厳原の有名な割烹は休業中だったので、2日目の夕食は新鮮な魚が地元で評判の食堂「めしや」で。こちらは刺身の盛り合わせ。サザエ、ヒラマサ、タイ、タコ、アワビとどれも新鮮で美味しい。

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アナゴの白焼き

こちらはアナゴの白焼き。タレ焼きとは違って、上品なアナゴそのものの味を味わえた。

 

八幡宮神社

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八幡宮神社の鳥居

厳原町の中心部に広い駐車場があり、清水山の麓に八幡宮神社と天神神社などが並んで鎮座している。社叢にはクスノキなどの巨木が目立つ。右の鳥居と大きな石段が八幡宮神社の参道で、すぐ左の小さな石段が宇努刀神社の参道である。

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八幡宮神社の石段と神門

八幡宮神社は古くから対馬藩主や島民の崇敬を集めてきた古社である。大きな神門は珍しく高床式となっていて、中には随身像がある。

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八幡宮神社の神門から拝殿

大きな八幡宮の扁額が掲げられた背の高い神門の間から、正面遠くに八幡宮の拝殿が見える。

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八幡宮の拝殿

厳原八幡宮神社とも呼ばれる八幡宮神社は、祭神として神功皇后仲哀天皇応神天皇他を祀る。社伝によれば、神功皇后三韓出兵からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は心霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったという。天武天皇6年(677天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営し、八幡神を祀ったのに始まると伝える。

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拝殿内

拝殿内にも大きな扁額が掲げられ、奥には本殿への扉が見える。

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本殿

本殿の左側に宝物館があり、拝観料を払うと、藩主が奉納した高蒔絵三十六歌仙額(1644-72頃)や元服時の髪などを拝観できるが、撮影禁止である。その入口に向かう石段から、本殿を間近に見ることができる。

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小さな境内社

拝殿に向かって左側手前には、小さな境内社が三つほど並んでいるが、詳細は不明である。

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平神社

その左に高さ3mほどの平神社がある。この平(ひらの)神社は延喜式神名帳に載る式内社である。祭神として天穂日命が祀られ、後に日本武尊仁徳天皇、皇子の三神が加祭された。記紀によると、天穂日(あめのほひ)命は、天照大神須佐之男命が誓約した時に生まれた五男三女神の一柱で、天照大神の第二子とされ、天忍穂耳命の弟神にあたる。芦原中国平定のため出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。のちに他の使者達が大国主神の子である事代主神などを平定し、地上の支配に成功すると、大国主神に使えるよう命令され、子の建比良鳥命出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。

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宇努刀神社の石段

八幡宮神社の石段のすぐ左の幅の狭い石段が、宇努刀神社の参道である。

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宇努刀神社

宇努刀(うのと)神社は、延喜式神名帳に載る式内社である。神功皇后三韓出兵の帰途、上県郡豊村に着いた際、島大国魂神社を拝んだ。その後佐賀村に着いた時、島大国魂神社の神霊を分祀した。延徳3年(1491)佐賀村より厳原八幡宮神社境内に遷座したという。祭神は須佐之男命である。

 

 

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天神神社と今宮・若宮神社の参道

一番左の苔むした石段が天神神社と今宮・若宮神社の参道である。

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天神神社と今宮・若宮神社

天神神社の祭神は安徳天皇である。安徳天皇は「平家物語」では、壇ノ浦の戦いで入水し崩御したと記述されている。しかし、天神神社の社伝によれば、安徳天皇は文治の乱を避けて筑紫に潜み、筑紫の吉井より対馬に下り、久根村に遷居した。対馬にて崩御した後、八幡宮神社境内に祀り、天神神社と称したという。貞治元年(1362)菅原道真の霊を加え祀った。

今宮若宮神社の祭神は小西夫人マリアである。小西行長の長女で対馬藩主・宗義智に嫁いで金石城に入った小西夫人マリアは、信仰心篤く義智をも入信させた。関ヶ原の戦いの後、小西家滅亡と共に慶長6年(1601)追われて長崎に逃れたが、家康に疑われることを恐れて義智はマリアを離縁した。5年後世を去ったが、元和5年(1619)霊魂を鎮めるためにマリアとその子を祀り、今宮・若宮神社と称し、後に天神神社に合祀された。菅原道真と同様、マリアの怨霊が対馬に祟りをもたらすのではないかと恐れたために祀ったと思われる。

 

金石城跡、清水山城跡

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濱殿神社

対馬下島の北部は美津島町が占め、東部、南部、西部を厳原町が占める。最大市街地の厳原地区以外は、西部の佐須川流域を除き、平地がほとんどない。市役所付近は7世紀には対馬国国府が置かれた地と考えられているが、いまだその遺構は見つかっていない。鎌倉時代対馬を治める宗氏が城下町を造って以来、対馬の中心地である。市役所のすぐ東、国道沿いの今屋敷家老屋敷跡の向かいに、濱殿神社という小さな神社を見つけた。今屋敷家老屋敷跡の発掘調査の報告書(2004)を読むと、享禄元年(1528)の金石城築城以降に当時の海岸を埋め立てて家老屋敷を造成したようだ。祭神は豊玉彦命を祭る。浜殿神社の由緒によると、神功皇后新羅遠征時に豊玉彦を殿守として祭祀したという。対馬のほぼ中央には豊玉町があり、和多都美神社などヒコホホデミ(山幸彦)や豊玉姫伝承が満ち溢れている。しかし、対馬豊玉彦を祀る神社は豊玉町仁位の浜殿神社と厳原町今屋敷の浜殿神社の2社に過ぎない(和多都美神社境内社の波良波神社もあるが)。一方、豊玉姫とヒコホホデミを祀る神社は十数社知られている。豊玉姫の父神である豊玉彦が祀られている神社が少ないことにはなんらかの事情があるようだが、よくわからない。豊玉姫神武天皇の父であるウガヤフキアエズノミコトを産んだ地の伝承は宮崎県鵜戸神宮にもあるが、対馬の伝承との関係もよくわからない。機会があれば、また触れることにしたい。

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池神社

同じ今屋敷という街区に、池神社という小さな神社を見つけた。祭神として、建彌己己命(タケミココノミコト)と弥都波能売神(ミツハノメノカミ)と佐須景満を祀る。説明板によると、神武天皇の時代、津島(対馬)の県主だった建彌己己命がこの地に館を置き、この地に大池があったため水の神の弥都波能売神を合わせ祀って本主神社また池神社と称した。大永6年(1526)宗将盛は館を中村より池の地に移したので池の城、あるいは池の館という。これより今屋敷の名起れり。今、大池埋まりて無し、という。

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金石城跡、櫓門

市役所から西北西に進むと金石城跡がある。この東の櫓門は大正期まで現存していたが、今は復元されたものである。金石城は近世にかけて宗氏の居館が置かれた城である。享禄元年(1528)、一族の内紛で池の屋形を焼失した14代宗盛賢(将盛)は、この金石原に金石屋形を建てた。その後大火が相次ぎ、寛文5〜9年(1669)頃、整備されて金石城と称し、対馬治世の拠点となった。

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旧金石城庭園

城の西にある国指定名勝の旧金石城庭園は、元禄3年(1690)から3年かけて築庭された近世庭園で、池の形状が「心」という字に見立てられていることから通称「心字池」とも呼ばれる。池底に漏水防止のため、種類の違う粘土を交互に重ねて叩き締めた「版築」という工法による底打ちを施しているなど、希少な構造を持つ近世庭園遺構として注目されている。2008年に復元工事が終了し一般公開されている。

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李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑

旧金石城庭園の手前には広い公園が整備されていて、そこに「李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑」が建っている。1931年、朝鮮国王高宗の娘・徳恵姫が、旧対馬藩主当主の宗武志(たけゆき)伯爵と結婚したことを記念し、当時対馬に住んでいた韓国人により建立された。

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誠信之交隣、雨森芳洲先生顕彰碑

公園前を北西に進むと道端に、「誠信之交隣、雨森芳洲先生顕彰碑」が建っている。雨森芳洲滋賀県長浜市に生まれ、元禄2年(1689)、対馬藩に仕官した儒学者である。長崎で中国語を学習し、さらに朝鮮語習得のため釜山倭館で勉学に励み、語学教育など幅広い分野で多大な貢献をした。江戸幕府将軍の就任祝いとして派遣された朝鮮通信使の江戸行きに2回随行した。宝暦5年(175588歳で没し、長寿院に墓がある。

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清水山城跡へ上る石段

雨森芳洲顕彰碑のすぐ先に清水山城跡へ上る石段がある。右手の赤い実をたわわにつけている木は、サンゴジュ(Viburnum awabuki)である。関東以西、四国、九州、沖縄、朝鮮南部の沿海部の山地に自生する常緑樹で、高さは5〜15mになる。枝は灰褐色、葉は対生し、長さは8〜20cm、厚くて光沢がある。6月頃、枝先に白い花を多数つける。

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モンキアゲハ

ランタナの花の蜜を吸っている蝶は、モンキアゲハPapilio helenus)。関東以西、四国、九州、沖縄、インド、東南アジア、中国、台湾、朝鮮南部と広く分布する。低山地に生息し、食草は主にカラスザンショウを食べる。黄白色の大きな紋が印象的な大型のアゲハチョウ。ランタナLantana camara)は、クマツヅラ科の常緑小低木で、南米が原産、観賞用に栽培されている。

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清水山城跡の三の丸

入口から10分程上ると、急に視界が開けてくる。ここが清水山城跡の三の丸である。厳原市街地や厳原港が一望できる。山城跡の東端に位置し、標高95105mの尾根の両肩部に石垣を築き、尾根に沿って細長い形状の曲輪を構成する。東西約80m、南北約30mである。豊臣秀吉朝鮮出兵の準備のため、1591年に築かれた山代で、出兵の拠点である肥前唐津名護屋城から、壱岐の勝本城、対馬の清水山城・撃方山、そして釜山へと連なる平坦線となる駅城の一つである。

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曲輪の塁線上

曲輪の塁線上には六箇所の横矢枡形がある。ここから急傾斜の稜線を進んでいけば、二の丸、一の丸(本丸)にたどり着くが、視界が開けていないので陰気な山道である。全山がシイやカシなどの常緑樹で覆われていて、山頂部には岩盤が露出する。

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コベソマイマイ

道端で大きなカタツムリを見つけた。対馬にはカタツムリの仲間では、ツシマケマイマイという茶色の殻の周りに毛が生えた対馬原産のカタツムリのほか、ツシママイマイというカタツムリがいるが、それはツクシマイマイ(Euhadra herklotsi)の地域種とされる。このカタツムリも大型だが、ツシママイマイより殻の色が淡い赤褐色で、殻には黒い斑紋が見える。断定しにくいが、コベソマイマイ(Satsuma myomphala)と思われる。

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二の丸に近づく

間もなく二の丸に近づいてきたが、道が不鮮明になってきたので、左手の遊歩道を経由して戻ることにした。

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大歳神社

厳原町の中村地区に大歳神社がある。祭神として大歳神、興津彦神、興津姫神を祀る。大歳神は須佐之男命と山神の娘神・大市比売との間に生まれた神で、十六柱もの多くの御子神をつくった神で、「子宝の神」であり、「穀物の神」で五穀豊穣、商売繁盛の神である。興津彦神、興津姫神は大歳神の御子で、興津彦神は「火の守護神」であり、興津姫神は「竈の神」で火から守ってくれる。初めは桟原などにあったが、貞享3年(1687)にこの地で大火事があったことを機に、防火の神、火の守護神として現在地に移されたという。

 

厳原、万松院

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万松院の山門

対馬中央部から南の対馬下島の中心地、厳原に向かう。厳原は14世紀後半から江戸時代に至るまで、一貫して対馬を治めてきた藩主・宗氏にまつわる史跡をはじめ、幕府から一任された朝鮮通信使が通り過ぎて行った痕跡が、寺院などに残されている。万松院は元和元年(1615)に、対馬藩2代目藩主・宗義成が、初代藩主である父・義智(宗家十九代)の冥福を祈って建立した宗家累代の菩提寺である。その後、数度の火災により、創建当時の姿を残すのは、この山門と仁王像のみであるが、それらは対馬最古の木造建築といわれ、創建当初の桃山様式を今に伝える。

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諫鼓(かんこ)

本殿に向かう途中の塀際に、苔蒸した諫鼓(かんこ)があった。領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓。「諫鼓苔蒸す」とは、諫鼓を用いぬことの久しい意。「諫鼓鳥」とは、諫鼓の上に鳥が遊ぶこと。諫鼓を用いる必要がない程領主が善政を施すことをいう。

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万松院本堂

万松院は創建当時は松音寺という名だったが、元和8年(1622)義智の法号に因んで万松院と改められた。正保4年(1647)に現在地に移り、寛永12年(1635)に臨済宗から天台宗に改めたのは徳川将軍家に倣ったのだという。元禄4年(1691)、享保11年(1726)と2度の火災で焼失し、今の本堂は明治12年(1879)に再建された。

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万松院本堂内

堂内には金銅観音菩薩半跏像、宗義智宗義成・宗義眞・徳川家康肖像画など市指定有形文化財が保管されている。

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三具足の花瓶・香炉・燭台

堂内には他にも、対馬藩主の逝去に際して、朝鮮王国から贈られた三揃いの仏具である、三具足の花瓶・香炉・燭台が展示されている。これらは日光東照宮にも送られており、対馬藩に対する朝鮮王国の信頼を表すものとされている。

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百雁木と呼ばれる石段

本堂の横から百雁木と呼ばれる比較的緩やかな123段の石段が続く。年に一度の祭りでは、石段の両脇にある約350基の石灯籠に火が灯される。暗闇の中で無数の灯火が醸し出す景色は非常に幻想的で見応えがあるという。この石段を上った所に宗家一族の墓所である御霊屋がある。鬱蒼とした森の中に荘厳な雰囲気が立ち込めている。

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万松院の大杉

墓所の手前には樹齢約千年ともいわれる大杉が3本もあり、県指定の天然記念物となっている。

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二十五代・宗方煕の墓と二十六代・宗義如の墓

対馬藩は十万石の格式であったが、御霊屋の規模は数十万石の大名並みの大きさを誇り、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに、日本三代墓地の一つともいわれている。中央に見えるのが二十五代・宗方煕の墓。右端に見えるのが二十六代・宗義如の墓。

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二十二代・宗義倫の墓

中央に見えるのが二十二代・宗義倫の墓。

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二十一代・宗義真の墓と正室の墓

右に見えるのが二十一代・宗義真の墓。左は正室の墓。

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二十代・宗義成の墓と正室の墓

右に見えるのが二十代・宗義成の墓。左は正室の墓。

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十四代・宗義誠の墓と二十三代・宗義方の墓

左に見えるのが二十四代・宗義誠の墓。右端に見えるのが二十三代・宗義方の墓。

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二十一代・宗義真の側室・高寿院の墓

百雁木の石段の中ほど東側に中御霊屋がある。藩主の側室や童子の墓が祀られる墓域である。中央の大きな墓は、二十一代・宗義真の側室・高寿院の墓である。

 

阿麻氐留神社

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小船越から西の漕手へ

和多都美神社がある豊玉町は対馬上島の南部で仁位浅芽湾を囲んでいるが、浅芽湾の南部は対馬下島の美津島町が囲んでいて、浅芽湾の最も東に小船越の集落がある。この小船越は対馬海峡と浅芽湾を繋ぐ海上交通の拠点で、かつては小さな船を陸揚げして狭い陸峡部を越えていた。

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西の漕手

この狭い陸峡部は160mほどしかなく、越えると浅芽湾に出る。そこを西の漕手と呼ぶ。大船は船を乗り換えた。

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西の漕手

7世紀から9世紀、遣唐使遣新羅使はここを歩いて通り抜け、別の船に乗り換えて進んだという。応永の外寇1419)の折、この地は占拠され、南北の交通路を断たれている。

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阿麻氐留神社

西の漕手の入り口近く、国道382号線沿いに、阿麻氐留(あまてる)神社がある。古代航路の拠点に鎮座する古社である。境内入り口の古びた石造鳥居の扁額に阿麻氐留神社と刻まれている。

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タカサゴユリ

境内入り口近くに白い百合の花が咲いていた。テッポウユリによく似ているが、葉が細いのでホソバテッポウユリの別名がある、タカサゴユリLeucolirion formosanum)である。台湾原産の固有種で、19世紀にイギリスに導入され、日本には1924年に園芸用に移入され、帰化植物として全国に分布し、海岸線から山地に至るまで広く自生する。

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小船越の港

石段を上ると二の鳥居があり、振り返ると、小船越の港が見える。小船越の2kmほど先に鴨居瀬の集落がある。対馬の伝承では、山幸彦が釣り針を探す旅の途中でまずたどり着いたのがこの美津島町鴨居瀬で、しばらく隠れ住んだのが美津島町濃部で、集落奥の天神神社には山幸彦が祀られている。豊玉姫との出会いの場は豊玉町仁位の和多都美神社。その子神である鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が誕生したのがこの鴨居瀬。豊玉町千尋藻の六御前神社にはウガヤフキアエズ6人の乳母が祀られている。

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二の鳥居

古事記では、ウガヤフキアエズは叔母で乳母だった玉依姫と結ばれ初代神武天皇となるカムヤマトイワレビコが誕生する。一方、海幸彦は九州南部の隼人の祖先とされており、対馬を含めた九州北部の海洋民が信仰していたのが海神・豊玉姫だとすると、天皇家の祖先である山幸彦の一族と、九州北部の海洋民が手を結び、九州南部の隼人勢力を征服したという歴史物語が見えてくる。対馬の神社巡りが面白くなりそうだ。二の鳥居の先にもまだ石段が続く。

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阿麻氐留神社の拝殿

石段を上り詰めるとようやく阿麻氐留神社の拝殿の前に出る。祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされる。日本書紀によると、顕宗3年(5世紀)遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを盤余(奈良県いわれ)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させている。対馬壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったと推測される。中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話があるが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る百手祭という神事が伝えられており、その関連が指摘されている。

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拝殿の中

拝殿の中には太鼓があるのみで、奥に続く本殿は暗い。対馬では、この美津島町小船越にアマテル(阿麻氐留)という太陽神が、厳原町阿連の山中にはオヒデリ(御日照)という太陽の女神が鎮座している。また、対馬固有の天道信仰の中心人物である天童法師は、その母が太陽光に感精して産まれたとされ、太陽の化身と考えられていたという。

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瓦葺の本殿

拝殿後方に瓦葺の本殿が続いている。「延喜式神名帳」の注釈書である「特選神名牒」は、山城の天照御魂神社、丹羽の天照玉命神社等と同じく、当社も天照国照彦火明命なるべし、と考定している。由緒では、貞観12年(870)従五位下の神階を賜るという。神仏習合が盛んな江戸時代には、「照日権現」「三所権現」と称していた。当地ではオヒデリ様、または照日権現と呼ぶ。

日本各地の神社縁起や伝承などは、江戸時代以降、とりわけ明治期の天皇制崇拝・神仏分離により、古事記日本書紀によって上書きされ、多様性を失った。が、対馬は森林が89%を占める辺境の地であったためか、多少なりとも上書き以前の姿が残されている。日本古来の宗教の姿は神仏習合により多くが変容していたが、それがまた明治期の天皇制崇拝・神仏分離により多くが破壊され、祭神が統合され変更されたことを問題視する立場をとる私にとって、対馬は昔の姿がかなり残っていて、大変興味を唆られる所である。

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本殿脇の石祠

本殿の左脇に境内社の石祠があったが、詳細はわからない。

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本殿の裏手の枯れた大木

本殿の裏手にねじれた大木が枯れて崩れかけているのを見つけた。昔は神木とされていたのかと思った。

 

和多都美神社

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和多都美神社の鳥居

対馬を縦断する国道382号から烏帽子岳展望所へ向かって分岐する道沿いには、和多都美神社があるのだが、はるか手前に大きな鳥居が建っていた。対馬の細かい資料が手元にないので、旅行前に対馬市より歴史観光資料を取り寄せたところ、対馬神社ガイドブックが含まれていた。それを読むと、「延喜式神名帳927年)」に記載された神社(式内社)が九州全体で98社あるが、対馬29社、壱岐24社と、壱岐対馬で九州の半分以上を占めている。大陸航路の拠点であり、国防の最前線として、朝廷からも重要視されていたためと考えられている。非常に多くの古社が残る対馬を巡る旅では、神社ガイドを頼りに出来る限り多くの神社を訪ねておきたいと思う。

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和多都美神社

和多都美神社は、豊玉町仁位の集落から離れた、南にある入江に鎮座する、延喜式式内社名神大社である。豊玉町中心部の仁位川沿いには古くから集落が形成され、弥生時代後期には対馬の中心地だったとされる。烏帽子岳展望所に近く、古代の海女族がこの地こそ海神に守られた竜宮だと考えたことが推測される。周りに集落はなく、元々は船でしか行けない聖地であった。

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拝殿前に並ぶ鳥居

日本の神話は日本書紀古事記、いわゆる記紀に集約されるが、対馬にも日本神話に対応する伝承・異伝が数多く残されている。この和多都美神社主祭神は、彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫命であり、対馬の伝承では、ここで山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。古事記上巻は、その豊玉姫の子神(鸕鷀草葺不合尊=ウガヤフキアエズの命)が、乳母である豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれ、カムヤマトイワレビコ神武天皇)を生むところで終わる。

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拝殿前に並ぶ鳥居

拝殿前に並ぶ五つの鳥居の内、二つは海の中にそびえ、満潮の時は社殿近くまで海水が満ち、その様は竜宮を連想させるという。ところがこの神社を訪れた翌月、台風10号の余波で最も海側の平成元年の鳥居が倒壊してしまった。すぐさま再建プロジェクトによって寄付を集め、本年中には再建されるそうだ。

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土俵殿と拝殿

和多都美神社の縁起によれば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、「海宮(わたつみのみや)」と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と名付けた。そして彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫命の二神を奉斎したという。正面奥に拝殿と本殿が建ち、左手には土俵殿が建つ。本殿後方には夫婦岩があり、その手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)という。また、西(左手)奥の山下に豊玉彦尊の墳墓(御陵)があるという。

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拝殿

和多都美神社は、貞観元年(859)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、三代実録によれば永徳元年(1381)に従一位を叙せられ、名神大社の一つに数えられた。

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拝殿内

海神である豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神穂高見尊、二女神は豊玉姫命玉依姫命である。和多都美神社の縁起では、山幸彦(彦火火出見尊火遠理命)と海幸彦(火照命)の伝説はこの地から生まれたという。

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拝殿に続く本殿

本殿の千木は外削ぎであり、鰹木は8本と多い。以前は外削ぎ(先端が垂直)が男神、内削ぎ(先端が水平)が女神を祀るとされていたが、現在では俗説とされる。同じく鰹木も奇数が男神、偶数が女神を祀るとされていたが、これも神社本庁ではそうとは限らないという。

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境内社と三柱鳥居

本殿の左手には、二つの境内社があるが、どんな摂社か末社か、詳細はわからない。

左手前にあるのは、珍しい三柱鳥居で、何か霊石らしきものを祀っている。有名なのは京都太秦木嶋神社の石造三柱鳥居である。東京向島の三囲神社のものは木嶋神社の三柱鳥居を原型としている。他にも十ヶ所ほど知られるが、ほとんどは模したものか、近年設置のものである。和多都美神社には境内入口近くの池にもあり、どちらもかなり古そうだ。

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波良波神社

本殿の右手には波良波神社がある。「延喜式神名帳」に登載される式内社。昔は仁位の「波浪」と呼ばれた場所に鎮座していたとされる。いつの頃からか当神社境内に移され、祭神は豊玉彦命(大綿津見神)である。豊玉彦命の直裔は穂高見命で、社家である長岡家・平山家の祖先神とされ、両家は系図や秘伝書に穂高見命之神孫と記してその系譜を伝え、代々仕えてきたという。

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三柱鳥居と磯良恵比須

境内左手にある池にも三柱鳥居が立ち、磯良(いそら)恵比須という霊石が祀られている。背面に鱗状の亀裂が見られるこの岩は、今なお神聖な霊場として祀られている。この岩を磯良の墓とする伝説があり、ここに社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊座か御神体石だったのではないかと札にある。磯良は神功皇后伝説に登場する海神で、古代の有力な海洋民族・安曇(あずみ)氏の氏神だが、豊玉姫の子=磯良という伝承があるという。イソラは記紀には登場しないが、「太平記」では、海底に住む精霊として描かれ、神功皇后三韓出征の際に招かれたものの、海藻や甲斐が顔に貼り付いて醜いことを恥じて現れず、住吉の神が舞を奏したところそれに応じて三条市神功皇后の水先案内を務めたとされる。ちなみに安曇氏の拠点は福岡の志賀島だが、遠く信州まで勢力を伸ばし、安曇野という地名を残し、白村江の戦いで戦死したと伝えられる将軍・安曇比羅夫は長野県安曇野穂高神社の祭神となっている。

 

対馬、烏帽子岳展望所

 

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アナゴ重定食

昨夏、対馬一周6日間の旅をした。対馬朝鮮半島に直面しているので、古来より文化交流と国防の最前線だった。3世紀の魏志倭人伝に最初に登場する倭国のクニとして描かれ、古くから日本と大陸を結ぶ海上交通の要衝だった。細かいことは順次述べることにするが、玄界灘対馬海峡に囲まれた対馬は海の幸にも恵まれている。対馬はアナゴの水揚げ高が日本一で、対州黄金アナゴが味わえるアナゴ料理専門店「あなご亭」がある。しかし、コロナ禍で観光客が激減したので、この店を含め多くの郷土料理店が休業となっていた。その中で交通の要所、美津島の交差点に面した店「肴や えん」にはアナゴ料理があったので、アナゴ重定食を頼んだ。他にも刺身定食、ひおうぎ貝の天ぷら定食、あらかぶの唐揚げ定食など、いろいろあって頼もしい。とにかくアナゴ料理にありついたが、専門店ではないためか、味がイマイチだったのが残念だった。

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ヤマネコ飛出し注意

対馬は南北に細長い形状の島で、中央部がくびれて浅芽湾(あそうわん)となっている。まず、その浅芽湾を眺め渡せる烏帽子岳展望所に向かう。対馬は全体的に山がちで険しく、耕作に適した平地は少ない。細い道に入るとすぐ薄暗い森の中となる。対馬固有の希少動物として有名なツシマヤマネコは、絶滅危惧種に指定され、生息地が鳥獣保護区に指定されているが、それ以外の地区でも散見され、交通事故に遭う事例も出ている。「この先ヤマネコ飛出し注意」の看板を見つけて、辺りを見回しながら森の中を進むが、そう簡単に遭遇することはなかった。

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烏帽子岳展望所へ

烏帽子岳は標高176mの低山であるが、山頂近くの駐車場から階段を10分ほど上っていくと展望所に着く。

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烏帽子岳展望所より

烏帽子岳展望所は島随一の景勝地といわれ、浅芽湾の雄大な景観が360°ぐるりと見渡せる。手前に見える淡緑色の花は、ミカン科のカラスザンショウ(Fagara ailanthoides)。本州以南の暖地の沿海地や山地に生え、高さ5〜15mになる落葉高木。葉は大型の奇数羽状複葉で互生する。小葉は9〜15対で約10cmの広披針形。7〜8月、枝先に小さな花を多数つける。対馬には固有の生き物が多く生息するが、オウゴンオニユリやツシマギボウシなど、対馬固有の植物は意外と少ない。

 

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烏帽子岳の北

烏帽子岳展望所は浅芽湾を北側から眺めるが、烏帽子岳の北の麓には竜宮伝説が残る和多都美神社があるのだが、深い森に遮られて見定められない。右手に杉の植林があるが、森のほとんどは常緑広葉樹で占められている様子。入江の奥には豊玉町の仁位の集落が微かに認められる。島中が無数の山々で埋め尽くされているのがよくわかる。

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西を眺める

西を眺めるとリアス式海岸に囲まれた仁位浅芽湾が左右に横たわっているが、よく見ると、対岸は細長い半島になっていて、その向こうに見える海は、日本海対馬海峡(西水道)である。

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南西を眺める

南西を眺めると仁位浅芽湾を囲む細長い半島の向こうに、大きな浅芽湾の出入口である大口瀬戸と対馬下島の美津島町尾崎の岬が見える。

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南南西を眺める

南南西には、仁位浅芽湾とだだっ広い浅芽湾が交わる辺りが見える。浅芽湾は右に左に複雑に入り組みながらさらに東へと伸びているが、烏帽子岳から続く山地に遮られて途切れ途切れに見える。

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南南東を眺める

南南東の方角には多島海のように小島が散在し、入江と半島が複雑に絡み合って、対馬上島と対馬下島の間に横たわる、浅芽湾の典型的な溺れ谷の様子に驚嘆する。左手前の入江は濃部浅芽湾という。その上の入江がまだまだ浅芽湾として複雑に入り食みながら東に南に伸びていて、大船越や万関橋を越えて対馬の東側、つまり対馬海峡(東水道)へと通じている。彼方に見える山々は対馬下島の北部の山だが、後日、その周辺も見て回ることになる。

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東の濃部浅芽湾の入江

東には濃部浅芽湾の入江が見える。多少の平地があると集落が発生するが、隣の集落との交流は難しそうだ。浅芽湾の自然海岸線の延長は日本一の長さがあるとされるのも頷ける。とりあえず、対馬中央部に横たわる広大な浅芽湾の地形、地勢を眺め渡すことができた。